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クワイエットルームにようこそ [映画]

クワイエットルームにようこそ、を見た。

女の子が泣き出す瞬間、女性の中に溜まったものが溢れるか溢れないかのその一瞬の美しさとアンバランスさが非常にきれいに描かれていた。

実際、女性があんな風に「壊れる」瞬間というのを、我々はあまり見たことがない、なんて錯覚しているかもしれない。しかし、実は割と頻繁に、その「一線を越えるか越えないか」というデッドラインを目にしている。不機嫌が不機嫌でなくなる瞬間の怖さに、男性は萎縮しなす術を失くす。

 

 

「切なすぎて笑えてくる」という文藝春秋刊のキャッチコピーのように、

笑いながら泣けてしまう映画だった。怖い。あー、女性うらやましいなー、もう。

 

公式HP(音が出ます注意)


クワイエットルームにようこそ

クワイエットルームにようこそ


あらすじをwikiより。

28歳のフリーライター、佐倉明日香は、ある朝目覚めると見知らぬ白い部屋にいた。そこは「クワイエットルーム」と呼ばれる、女子専用の精神病院の閉鎖病棟。明日香はそこに来た理由を思い出せずにいたが、個性的な患者達と接し、次第に馴染み始める。

テレビや公式HPの予告編を見れば分かるが、いわゆるヒステリーを起こした(起こす)女性が隔離された病棟、精神科が舞台のお話。日ごろの締め切りに追われ、睡眠薬に頼らざるを得ない生活を送っていた明日香が、ある日様々なことが重なってオーバドーズしてしまい入院となる。で、そこから出られるように頑張って気を確かに持とうとするのだが、周りの患者たちとの関わりの中で容態は浮沈し…。

それぞれの女性がそれぞれに持っている病理にスポットが当たり、物語はすすむ。そして、それでいてその病理は非日常的でない。彼女たちは、現実で当たり前に見られるような女性の病が、より過剰な形で現れた人たちなのである。隔離病棟にいる人たちと"そんなに変わらない"人たちを、我々は電車の中や繁華街でよくよく目にしている。

 

 

 

 

さて、で、そうした病理的女性が当たり前に存在しているとして、では我々はなぜそれを映画にしてまで見ようとするのだろうか。

それは、やはり女性は見るに値するものだから、なのではないだろうか。

女性は、良く言えば「魅力的」、悪く言えば「見世物」なのである。

 

 

例えばこの『クワイエットルームにようこそ』が、男性の病棟を描いた作品だったらどうだろうか。見たいと思うだろうか。それはそれで面白いし、見ていて楽しめないことはないだろうが、それが知的好奇心をくすぐるような面白さで成り立つかと言うとそうではないし、身を動かされるような情動を起こすかと言うと、そうではないと思う。

男性版クワイエットルームヘようこそ、は、やはりコメディ的な、笑いの要素が詰まった作品にならざるをえないだろう。見る我々に介在するのは、どこか「ダメだなぁ、この病棟にいる人たち。」や、「大丈夫かー、もう。これじゃー、社会で生活していけないよなー。ビョーキ(笑)。」のような感覚、ある意味「見守る」ような気持ちである。若干ヒきつつも、ある種母親的な目線で、笑ってやろう、みたいな感情が作用しているはずである。母性、って言ってもいいか。

『40歳の童貞男』、『童貞をプロデュース』のような作品に共通するような、「もはや笑うしかない」けれども「笑って済ませられる」実情が、描き出されることになろう。爆笑されればそれが救いになる、みたいな。

 

 

しかし、女性に焦点が当たっていると、それはただのファニーに止まらない。コメディの先を、我々は推し量ってしまうのである。『クワイエットルームにようこそ』でも、「なんであのシーンで、彼女はあんな行動をとったんだろう」と、どこか理屈だけでは説明できないような、「謎」な部分にどうしても目が行ってしまう。

男性を見ているとき、なんとなく彼の行動理由を僕たち男性は「分かる」。まぁそれは男性だからでしょ、なんてことも言われるだろう。だけども、そんなことはない!と僕は言いたい。男性も女性も、そのシーンに出てくる「男性の魂胆」だとか「行動原理」みたいなのは、無意識に分かってしまうんじゃないかい?言葉では説明できなくとも、「なぜこのシーンであの男はあんな風に行動したか」というのが、いわば勝手に、「腑に落ちてしまう」という現象を、体験したことがない人は少なくないはずだ。

つまり男のことなんて、男も女もお見通し、なのである。

逆に、女のことは、男も女も分からない、のではないか。

女性には、男女のどちらからも解き明かされないような謎が、内包されているのではないかと、この映画を通じてより強く思うようになった。

 

 

 

最近、東横線に乗る量が半端でなく、16日連続で渋谷に通っていた。で、その横浜-渋谷30分間を上手くつぶすために落語を聴きまくっていたのだが、その際に感じた「既知」と「未知」の笑いの差、というものが、この男女の魅力の差につながっているのではないかと感じた。

落語の知らないネタを初めて聴いたとき、鳥肌が立つような面白さ、怖さ、感動(って言うと大げさだけど)が襲ってくる。オチでポンっと出てくる言葉遊び的なものだとか、思わずうまいとうならせる業のようなものだとか。10分くらいの話から、25分、もっとある話まで色々あるが、どれも大体面白い。そしてその面白さ、オチが際立つ理由は、おそらくその「謎が解けた」という快感に拠っているからではないだろうか、と思い至った。

つまり女性にあるような「謎」が、笑いの快感を生み出しているのである。

 

逆に、一度聞いたことのあるネタでも、笑えるものや「うまいなー」としみじみさせるものがある。これは男性を見るときの「親心」「母性」のような、既知のものを再び確認して愛でなおす、という作業である。「やっぱりあのネタは面白いなぁ」とか、「何度聞いても唸らせられるなぁ」みたいな感想を、頭の中に思い浮かべるのである。

こうした既知のものを楽しむような母親的目線は、それを知っているからこそ生まれるのだ。

 

 

 

まぁ何が言いたいかと言うと、

女は「知らない、分からない」から面白くて、

男は「知っていて、良く分かっている」けども面白い、ということだ。

男女どっちも面白いけれども、その面白がられ方には違いがある、のである。

 

 

 

として、映画に戻った時に、彼女らの持つ病理の作られ方、描かれ方が過剰なほどに「謎につつまれていること」が思い出されてきた。監督の松尾さんは、彼女らの行動原理をとにかく「わからないように、よりわからないように」、ひょっとしたら(ひょっとしなくても)永遠に理解されえないものとして、描いたのではないだろうか。英語の訳文ではないが、女性の病理は「いくら分からなくしても、分からなくしすぎることはない」のである。

分からなければ分からないほど、彼女たちは見世物に、なる。女性には失礼だが、そういうことなのではないだろうか。

 

男性のことは既知、女性のことは未知。これはひとえに僕が男性だから、という理由だけでは説明できない気がするがどうだろう。女性のみなさん。男性のことなんて、大体分かってるんじゃないっすか。言葉にできなくても。

 

 

 

 

 

まず笑ったのが「主演:内田有紀」というキャスティングなわけだが。

彼女をここに持ってきたあたりが、メタ的に見ると非常に面白い。

あと、またこういう所に出てくるのが庵野監督。よくやるなー。

しりあがり寿さんとかも出てくるし、伊勢志摩さんもいた。松尾ワールド全開、っちゃ全開。

ただでも、劇団大人計画臭はあまりしなかったような気がした。

パンフレットにも、「いきなりすっ転ぶようなところで大人計画は勝負しているんじゃない。もっと繊細なところ、転ぶか転ばないかのぎりぎりのラインで勝負している。」と書いてあったが、まさにその通り。そのバランス感覚が、女性の持つアンバランスさと見事にマッチしたからこそ、良い映画になっているんだろう。

 

 

そんな風に見ると、良い作品、魅力的な事物が兼ね備えているのはどこか繊細な「女性性」なのではないかとすら思えてきた。我々が知的好奇心をくすぐられるのは、そこにある「女性性」「謎」であり、例えばその対象が男性であっても、そこに介在する「女っぽい部分」に惹かれてしまうのではないかと、思うわけである。松本人志だって、多分そう。

 

な風に、色々なことを考えさせてくれる映画だった。

 

 

 

ギャグ満載(なんて書くと怒られそうだけども)、演劇的な言葉、掛け合い遊びみたいなものもあるので、これはオススメの映画。切なくて泣きそうになるし、あと心温まるシーンとかもあるけど(あのナースの人とかね)、総じて元気が出る映画、って評価らしい。レビュー見てると。…僕は凹んだけどなー、というか嫉妬した。

 

とりあえず公開中なんで、見られる人はぜひ。

 


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『悪い男』 [映画]

『悪い男』を見た。

しびれる。

 


悪い男

悪い男


韓国映画

Amazonより、

ヤクザのハンギは街で見かけた女子大生ソナにひとめぼれし、いきなりその唇を奪う。そのときからソナの人生は変わった。本屋で落ちていた財布をカバンに入れたのがきっかけで、娼婦街に売られてしまう。しかしそれを仕組んだのはハンギだった。彼はマジックミラー越しに、娼婦になったソナをずっと見つめていた。

生きることに不器用な男と、そんな男に一方的に愛を捧げられた女の、激しく奇妙なラブストーリー。常に彼女を見つめ、危険が及ぶと助けに飛んで行く男の行為は、ある意味、純情だけれど、その手段を問わないハンギの行為はまさに「悪い男」だろう。激しく暴力的な純愛という、新しい愛の形を描いたのは韓国の異才キム・ギドク監督。海外の映画祭でも評価の高いギドク監督の描く愛の世界は甘さ一切なし。激し過ぎて嫌悪することもあるが、目を離せないことも確かだ。(斎藤 香)

 

 

 

といったのがあらすじ。

ただ、あらすじだけを追っていても疑問が湧いてくるから不思議だ。普通の映画なら、最後のシーンを見たら「あぁ、なるほど、こういうことだったのね。」となるけれども、これはそうはならない、というタイプの映画。今巷では「絶対に二回読みたくなる小説」なんてのが話題を呼んでいるが、これは多分2回観ても分からないだろう。

 

 

普通、愛し合っている者同士であれば、「常に一緒にいて、時間を共にして、心も体も結ばれたい。」というのが「正当」な感情である。がしかし、この主人公ハンギは、フランスの映画評論家に「性倒錯者」と称されるくらいにヘンな愛情表現をし、そしてヒロインであるソナもそれを受け止めながらヘンになっていく。

「これこそが純愛!」なのか、それともただのヘンタイなのか、議論を呼んだ作品でもあるのだ。

 

 

ハンギは、自分の好きな女性が娼婦として他の男に犯されているのを、ただただ「見ている」。

普通、そんな光景を見て楽しめるのは相当のサディストか、マゾヒストのどちらかだ。

「他人に犯させて興奮する」サディストと、「他人に犯されて感じている彼女を見て、自分のいたたまれなさに興奮する」マゾヒスト。自分との結びつきを放棄してまでそうした快感を追求できる精神は、見上げたものだ。がしかし、性倒錯者と言われてもしょうがない、ともいえる。だってヘンでしょ。岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』じゃないけれども、自分の目の前で自分の好きな人が犯されるという光景は、壮絶なトラウマを生むはずだ。

 

 

しかし、上記二つの興奮は、サディスティックであれマゾヒスティックであれ、「この女は自分のものである」という事実と自信と確信に基づいてしか、もたらされないはずである。として、ハンギがそれを感じていたかというと疑問だ。「俺の女」が犯されている、という自信がないと、それを見て興奮なんてできない。

しかし、ハンギがそんな自信を持っているようには見えない。彼は常に不安そうに、ソナが犯されているシーンを見ていた。それはまるで、想いを寄せる女性に付きまとうストーカーのようで、叶わぬ恋に焦がれる女性のようでもあった。気持ち悪いが、しかしピュアなのだ。

いわゆる「ヤクザ」のイメージのままだと、それこそさっき書いたように「俺の女」のような感情をいつでもどこでも抱いていそうに思われるが、彼にはそれがない。もちろん、粗暴なところはヤクザのそれそのものだが、ソナを見つめる視線はどこか女性的だった。

ハンギが意味不明に暴れる姿は、女性のヒステリーと酷似しているのではないだろうか。

 

 

ヤクザにとって娼婦は、「客を取り次ぎ金を巻き上げるためのもの」であり、

娼婦にとってヤクザは、「金を稼いで一部を計上し、その代わり身を守ってもらうための存在」である。

ハンギとソナは、例に漏れずそうなった。しかし、そこに愛は存在してはいけない。お互いの食い扶持を愛してしまっては、いけないのである。そして、愛してしまったモチーフは、なんとも陳腐なストーリーを紡ぎながら、極めて安っぽく描かれてしまう。しかし、彼らにはそれがなかった。

 

ハンギとソナは確かに愛し合っている。だからこそ、自らの領域を超えない。愛しているが、お互いにとって相手は食い扶持である。だから二人は結ばれない。既にその役職(ヤクザと娼婦)で結ばれてしまっているが故に、ハンギとソナという二人で結ばれることは、ほぼない。最後のワンシーンでそちらに傾いてハッピーエンドかと思いきや、そこでまたどんでん返しがある。しびれる。彼らはどこまでも「やくざと娼婦」なのである。性倒錯などではなく、極めて社会に従順な純愛カップルなのだ。

 

愛しているが故に、セックスしない、というモチーフは、確か『ドックヴィル』の中でも取り上げた気がする。あの場合も、邪魔するものは「犬と神」という「肩書き/立場」であった。体や心などの「本人」とは違うところで既にその存在同士が結びついてしまっている場合、「本人」同士はたとえ好きであってもそこで結ばれることはない。その物悲しさが、「純粋さ」というものを描くには非常に好都合なのだろう。

 

 

『悪い男』は、ある意味で悪く、そして全然悪くない。本当に悪いのは「ダメ男」である。

しかしどちらも、非常に魅力的だ。男にとっても、女にとっても。

 


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『童貞。をプロデュース』 [映画]

『童貞。をプロデュース』を観た。

大爆笑して、そして凹む。

 

 

ちょっとエッチな部分と下品な部分があるので読みたくない人はやめてね。

と書くのもばかばかしいけど。

 

 

 

予告編

 



 

友人に誘われて、渋谷はユーロスペースへ。ラブホテル街をゼミの男女5人で歩いて、午後8時半頃に到着。レイトショーなので上映は9:10からだった。

あらすじは予告編を見てもらったら大体分かるだろうけれども、とりあえず。

二人の童貞にスポットを当てて、前半、後半と分かれているストーリー。彼らの童貞的な考えをどうにか払拭して、女の子ときちんと接せられるようになってもらおうというコンセプトで、童貞をいつもとちょっと違う場所、空間に置いてみたらどうなるか、というのを追ったドキュメンタリー。彼らが女の子の前になると慌てふためく姿が死ぬほど面白い。会場も大爆笑だった。

ただ、実際に「プロデュース」されている場面はそれほど長くなく、むしろ二人の童貞君が自分の日常生活を撮ったフィルムを編集して映している時間の方が多い。そしてそれが激しく面白い。痛々しいし、頭がおかしいようにも思えるけども、これは笑わずにはいられない。編集とテロップの入れ方も上手いんだろうな。

 

 

 

 

まずは一人目童貞加賀くん。見た目は割としゅっとしていてサブカルオタク系。いかにも専門学校生という感じで、部屋には大量のDVD。今改めて見ると普通にかっこいいじゃん。ただ、23歳童貞で仕事も首になり、という状態。好きになった女性には彼氏がいるらしく(遠距離恋愛中)、勝ち目は薄そう。しかし、そこを何とか、告白するようにもっていこうと、色々とプロデュースの手がかかる。

童貞にも種類があるが、彼はとりあえず「理屈童貞」とでも言えようか。

「告白すると相手の女性に迷惑がかかる。」「告白できないくらいに僕は彼女を大切にしてるんです。」「いや、でも彼女を好きな気持ちは彼氏よりもあると思います。」「そりゃ、付き合えるなら付き合いたいですけど。」「でも付き合うなんて迷惑でしょ。」「相手のことを考えると…」

もう!

 

とにかく、理屈がすごい。いや、それが別にイヤミったらしいわけではなくて、普通にかわいくておもしろいのだが、確かにあれでは童貞脱出は難しい。とにかく、相手の女性を大切にするがあまり…というのが主な理由で、しかも割と筋が通っているからいじらしい。「じゃあホントに好きなら付き合いたくないのかよ!?」と問いただしたくなる状況、そういえば3ヶ月くらい前に実際にあった気がするぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな彼が、AVの撮影現場に行く場面が訪れる。

 

それ以前に、撮影現場に行くか行かないかを決めるのにもまたヘンな理屈をこねるシーンがあるのだが、これも爆笑。「やっぱり、AVっていう仕事でセックスするのは、俺は違うと思います。」「あの、ホントに行かなきゃダメですか?」「はぁ、じゃ、じゃあ!コイントスで決めません!?」

 

コイントスかよ!(笑)

 

会場はもう大爆笑だった。

 

 

 

そしてまた撮影現場についても、言動全てが面白い。AV監督カンパニー松尾さんのためになる話と対称的に、加賀くんの「心底嫌な気持ち」がひしひしと伝わってきた。またこの時のAV女優の人が面白くて、ねぇ。「初体験は14歳です。」に始まり、その後実際に撮影するシーンに入っても、怖いくらいに性にアクティブ。まぁ仕事だからなんだろうけども、あれは童貞じゃなくても怖いだろうなぁ。

手でされるシーンの撮影から、急に口でされるシーンへと展開する時の面白さは圧巻。

「話が違うよぉーーーーーーーーー」と叫びながら、必死で抵抗して暴れる。でも下半身は超元気、という。あれに笑わない人はいないだろ。女優の方ももう苦笑いで、「こっちはこんなになってるのに(笑)」と必死で加賀くんを捕まえる。やー、あれはこの世の終わりと始まりを同時に見ているかのようだったね。

 

 

 

 

結局最後まで抵抗したまま、AV撮影は終了。何も出来ず。

カンパニー松尾さんの名言でその場面は終わった。

「人は誰にでも迷惑かけるもんなんだよ。生きている限り。セックスもそう。相手がいないとできない。だから、迷惑はかけるものだ、と思って生きていかないと。ね。」

これが加賀くんの心に響いたらしく、彼はその後告白の決意を固める。そして…

 

 

 

 

 

 

 

 

というのが一人目童貞くん。

 


 

続いて二人目童貞の梅澤くん。加賀くんの紹介による。

彼も重度。映画の専門学校に通っていたらしく、やはり部屋は漫画と本とビデオ、DVDが大量。そして何より大量なのが、雑誌の切り抜き。80年代アイドルから、現在のトップ女優に至るまで、雑誌のグラビアを切り抜いてスクラップ、ファイリングしている。そして住所は秩父。この秩父というド田舎に、これから先もくすぶっていくんだろうな、という未来のなさが、梅澤くんをいっそう不憫にさせる。加賀くんの方は東京だったこともあって、まだどこか救いのあるような感じがしたが、郊外にもならない田舎の一角、「掃き溜めのようなところ」(加賀くん)で、紺色の中古車を乗り回す姿は見ていて凹む。

 

彼は80年代にピークを迎え、20歳を前に引退したアイドル「島田奈美」さんを崇拝し、自主制作映画まで作ってしまった。これはすごい。しかし、それをこじらせて童貞のまま24歳。笑えない。といっても、なんだろうな、今メディアが取り上げているような「アニメ、漫画オタク」のような不潔さはない。東京にいない分だけましなのか、群れないからましなのか、どうかは分からないが、この違いだけは分かってあげてほしい。

ホントに田舎の食卓、というものが映り、ここのシーンの救いのなさに、男性陣はさらに凹んでしまった。両親にだけは強く当たる梅澤くんの姿や、味噌汁がないことに怒るシーン、父親と母親のべたべたな日常会話に、先に結婚した弟夫婦の部屋。映されるものが全て痛々しかった。なんだろうなあの切なさは。

 

 

仕事はゴミの焼却。給料はあまり良くない。そして趣味はゴミ漁り。廃品回収の時に出る雑誌の山を漁って持ち帰り、またスクラップにする。休日になると、BOOKOFFを5軒も巡り、雑誌や漫画を漁る。またこのBOOKOFFのたたずまいが、自分の田舎を彷彿とさせるようで、泣けてきそうだった。あれはね。

 

そうした彼の日常を映しつつ、彼が作った自主制作映画を、島田奈美さん本人に見てもらおう!というのが最終プロデュース内容。といっても、彼の日常だけで十分にお腹一杯だったのだが。

 

 

 

その前に、専門学校時代の後輩と一度だけデートする場面があるのだが、あれはもうこの世の終わり。

デート中に「楽しいですね。」と梅澤くんが言うと、「そう?」と言い返す彼女。

 

「仕事は何やってるんですか?」

 

「ゴミの焼却」

 

「それって楽しいんですか?」

 

 

ドライブ中もずっとケータイをいじっている彼女に、最後は緊張して車の中で…。

あれは衝撃的だった。やばい。この世が終わった。

 

そして最後、池袋での自主制作映画上映会に、果たして島田さんは来てくれたのか!?

というところでおしまい。爆笑したけど、二人目は切なかったなー。

 

 


 

とにもかくにも、面白かった。

そんじょそこらの映画に1500円払うよりも百倍面白かったし、

その日の15時くらいに大学で聞いた井上康生の講演会なんかよりも二百倍面白かった。

 

なんだろう、やっぱり童貞にはある程度共通するものがあって、二人共にあった収集癖だとか、相手に迷惑がかかることを恐れるがあまり何も出来ないところとか、色々とある。相手を好きすぎてどうにもできない、みたいな。それがどうしようもなく、かわいい、なんて河瀬直美さんに言われてしまうんだろう。そんなこと言われても、こっちは必死なんだけどね。

そしてそうした「不逞」は、童貞を喪失したから消える、なんてものでもない。

 

 

 

ホントの童貞、それこそ「プロデュースされることすら拒む」のが童貞だ!なんてことを言う人ももちろんいるだろうし、それは否定しない。プロデュースされた二人の童貞も、二つのパターンにしか過ぎないだろう。でもやっぱりそこから抽出できる要素は童貞のそれそのものだ。として、これほど男女共に楽しめるドキュメンタリーはないと思う。

池袋やら渋谷で上映して、童貞を笑いものにしてるだけ、なんて批判もあるかもしれないが、笑ってあげることも十分に救いにはなる気がするしなぁ。難しいところ。

 

 

 

 

10月19日(金)まで、って明日までか、レイトショーでやっているので、

見たい人はぜひ!

 


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ヴァイブレータ [映画]

廣木隆一監督の『ヴァイブレータ』を見た。

久々に泣いた。なんだろうこの作品。

 


ヴァイブレータ スペシャル・エディション

ヴァイブレータ スペシャル・エディション


 

主演は寺島しのぶと大森南朋。トラックドライバーの男性とフリーライターの女性の二人が旅をしながら自分の生、性、幸せ、とは何かを見つめていく作品。文章で書くとなんでもないようなストーリーに見えるが、そこに描き出される病理は胸に迫る。

 

突然自分の声、自分のささやきが頭の中に聞こえてきて、気持ち悪くなり嘔吐してしまう、という症状に悩まされている主人公の早川(ライター女性)。過食嘔吐から発展した、「吐き癖」というものがついてしまっているらしい。その原因は、過去の嫌な経験、いじめなのか、何かから逃げてしまった経験からなのか、他人から言われた悪口なのか、何かはあまり語られないままに物語は進むが、逆にその病理の原因が語られないだけに、早川は魅力的に映る。「そもそも何で、あなたは気持ち悪くなるの?」というのが、「全然分からない」からこそ、共感できるのかもしれない。

よくある話の場合だと、「ある一つの病理」があって、なぜかそれに悩まされている女性なりなんなりがいて、「その原因を突き止めようとする人」がいて、でその原因が分かって、それを取り除いて、ハッピーエンド、みたいな流れができている。典型的な映画とか、エロゲとかもそうじゃないかな。要はそこに「探究心」的なものが、作用しているのである。

 

 

 

それが何なのか、知りたいと思って努力し、そしてそれを知る、という探究心。それは、描かれて共感を得やすいモチーフ、一般的に扱いやすいトピックとして君臨している。そしてそれは、極めて男性的な欲望である。「何か謎を解き明かしたい」、だとか、「見たこともないところへ行ってみたい」などなど、未知を追うのは男性の使命のように語られる。「おらぁ、もっと強ぇヤツと戦いてぇ」とか、「ひとつなぎの大陸が」とか、そんなところか。

 

じゃあ逆に女性的な欲望は何なのかと言うと、それは「謎めくこと」である。自らが主体的に謎めくことで、男性に一生解き明かされない自分、一生欲望される自分、というものを作成する。舞城王太郎の小説『好き好き大好き超愛してる』でも、死を悟った女の子が、彼に最後の謎を作るために彼に内緒で外出する、というシーンがある。これはすなわち、彼に対して解き明かせない謎を作ることで、忘れられることを回避する手段である。ちょっと男性主義的な考え方だが、一理あるはずだ。

 

 

 

 

 

--

で、この作品に戻ると、ここでは早川という女性の側が、その男性的な役割を負っているような気がした。

女性が男性に対して「あなたに、さわりたい」という意思表示をし、そして男性の素性を明かすことでまた、必要とされる自分、というものを発見していこう、というのが早川の欲望だ。

逆に、男性である岡部(トラックドライバー)は、ストーカーに追われているだとか妻子がいるだとか、嘘の話をでっち上げたりして謎をどんどん生み出していく。やくざとつるんでいた話も、どこまで真実か分からない。いいかげんな男である。しかししかし、一つだけ彼が持っている真実は、早川が大切な人である、ということだ。なんともロマンティック

 

 

 

 

 

早川がトラックに乗りながら、自分の声によるストレスから嘔吐してしまうシーンがある。そこの描写が何よりも秀逸だった。嘔吐に至るまでの病的な症状。自らの頭を殴りに殴り、頭の中に響く声、声の主を一掃しようと試みながら泣き崩れる様子、そしてやっとの思いで胃の中のものを吐き出す様子、心打たれない人はいないだろう。

そしてその「嘔吐」という行為が、どことなく男性の「射精」に似ている気がした。性欲と一緒にしたら絶対怒られるのは分かってるけども、でもそう見えたわけだ。

 

 

その嘔吐を見ている間、男性はやっぱりなす術がない。どうしていいやら分からない。無力な存在、として描かれている。しかしそこで、「何も出来ない」ことが、岡部の良い所、なのかもしれない。「何も出来ない」、のか、「何もしない」、のか、傍から見ている分にはどちらも変わらないが、でも彼の精一杯さだけは伝わる。それがおそらく、良いのだろう。先ほども書いたように、彼のたった一つの真実、「早川が大切」、それを不器用なりに表現する様子が繊細に描かれている。

 

 

 

 

お互いに相手のことを理解しようとし合いながら、トラックでの旅は続き、最後にドライバー岡部は「ずっと、トラックに乗ってていいよ」と言う。そこで早川がした決断は…、といったところでラスト。男女の役割は最後まで逆転したままだったが、最後が近づくにつれて、早川はその女性性を取り戻しつつある。岡部はというと、やはり女性のまま、だった。性はもちろん男性なんだけれども、そのやさしさが、女性そのものなのだ。

 

ラストシーンに疑問が残る人も多いかもしれないが、あれが、一番の、やさしさ、なんだと思う。

どこまでも、岡部は優しかった。

あの優しさが、どこか女性的で、良いなぁ、と思った。

紳士でなく、ステキでない、一番優しい方法が、あれなんだろうなぁ。これは必見。

 

 

 

 

 

 


基本的に登場するのは岡部と早川二人だけ。なのに2時間退屈しない。

あとトラック内での映像や走りながらでの映像、これは撮るのすごい難しかったんじゃないかい。やり直しとか出来ないだろうのに、ワンカットが長くて。役者二人の力量が圧巻。あと関係ないけど、ヴァイブレータ使うシーンなんて出てこないので、それを期待してる人は残念。

 

 

 

 

とにかく、

女性の病理を描いた作品としては最高峰。それでいて男性女性ともに、これだけ自分の性別の役割を問い直すきっかけになる作品は他にないと思う。

廣木監督の次の作品『やわらかい生活』も同じようなテーマらしいので見てみよう。「がんばらないでいいよ。がんばってる女性にエールを送りたい。」なんてことがテーマらしい。ほぅ。

 

 

 

 

これはいいよ、オススメの映画。

快感!とかはなくて、ほのぼの(´¬`*)とかもあんまりないけども、

最後に心は温かく、静かに震えるヴァイブレータ。

 


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『レーシング・ストライプス』 [映画]

花火大会+飲み会から帰ってきたら、

深夜映画をちょうどやっていた。

その素晴らしさに覚えた感動を、ちょっと書いておきたい。

こういう、深夜のいい感じの映画、いいよなぁ。

月曜映画とか、

 

映画は「レーシング・ストライプス」。

 


レーシング・ストライプス

レーシング・ストライプス


 

えーと、一言で言うと、

 

まんま、

 

マキバオー。

 

 

もうね。マキバオーを見ているんじゃないかというくらい、マキバオーだった。意味不明。

 

あらすじは、goo映画より…

嵐の夜、農場主のノーランは、置き去りにされた赤ちゃんシマウマを見つけ、連れ帰る。娘のチャニングは大喜びで、このシマウマを「ストライプス」と名づけた。ストライプスは、農場の仲間に囲まれてすくすくと成長する。ある日、走るのが大好きなストライプスは、競馬トラックを見て自分も出場したいと夢見るように。偶然ストライプスの速さを知った競馬の常連ウッジーは、ノーランにケンタッキー・オープンへの出場を提案するが…。

というもの。因みに監督は『ベイブ』の人らしい。

あとは競走馬サラブレッド軍団たちとの抗争や、調教師同士の争い、暗い過去、「シマウマをレースに出場させて良いものか?」という展開、ラブ、旗手となる少女の成長、父娘の愛、動物たちの仲間意識、最後のレースのどきどきはらはら、と、これだけ書けばもう内容が分かってしまうのではないか、という要素が詰まっている。まぁまぁ、ホントにしっかりした起承転結。

 

 

 

自分がシマウマであるということに気づいた時の落胆と、そのコンプレックスを努力によって克服する、という非常にオーソドックスなテーマは、マキバオーのお話そのものだろう。あと、マキバオーではチュウ兵衛が担っていたポジションを、こっちでは色んな動物が担っている。二匹のハエ、がそれにあたるのか、ロバか、ヤギか、なんだろうな。でも、同じ動物がいわゆるセコンドの位置を占めるというのはマキバオーとほとんど変わらない。

ストライプスも、マキバオーと同じく「母親不在の物語」で、「母を捜して三千里」的なスタートから、最後は自分のコンプレックスをレースでの活躍によって克服する、という流れになっている。「僕は、僕なんだ。」という結論へと進むために、母親の代わりを見つけるために、必要なのはやはり結果、名声なのである。

ただ、違いは「人間と動物が会話できるか否か」という点。まぁそれはアニメと実写の線引き、として必要か。

 

 

 

 

 

さて、肝心のストーリーはというと、それ自体にはもう何の面白みもなく、真新しさもないので「はい、はい、はい。」と見ていくだけ。しかし、じゃあ何が面白いのか、というと、それは一歩引いて見た時の「自分の目線」が非常にシュールなこと、だ。

「うっわー、シマウマ、走ってるよー。」という感想が、よくよく考えるといかに面白いか、ということに気づけると、本当に見ていてなんだか楽しくなってくる。まぁこれはお酒飲んでるから、というのも大きいかもしれないけれど。「うっわー、ペリカンめっちゃ関西弁やん…。」みたいな。

とくに、ライバルのサラブレッドの舎弟軍団にしっちゃかめっちゃかされるところのセリフ回しなんかは、もうこれ何年前の学園モノ映画だよ、と思うくらいにべたべた。笑う。ハッキリ言って、色々とおかしなことが、この映画では起こりすぎているわけで、いわゆる「子供映画」がキライな人には絶対に合わないと思う。や、でも馬鹿馬鹿しすぎて面白い、というのはあるよ。

 

 

 

 

 

 

102分の半分くらいを過ぎると麻痺してくる「動物たちがこうやって動いていることの違和感」を、最後まで持ち続けることが出来れば、感動と落胆の二つを同時に味わえる、素晴らしい映画だと、僕は思うんだけれども。

とにかく、CGもすごいと思うけれども、実際にシマウマに人を乗せて走らせた時点で、もうこの映画は勝ちなんじゃないかと思うよね。やー、もう意味不明でしょうシマウマを競走馬にするっていう発想は。あるいは企画会議なんかで挙がって、みんな笑うけれども絶対にお蔵入り、というネタを、本気で形にしたその功績だけで十分な気がした。

 

 

 

 

 

 

まぁただ、この映画の主人公が

シマウマである必要性が全く分からない、

というのも良いところだったりするしなぁ。

まぁ一番センセーショナルだったのがシマウマなのか?

鹿、とか、ガゼル、とか、でも面白いかもしれないけどなー。

 

 

 

とりあえず、借りてまで見るほどのものじゃないと言うことだけを書いて、終了。

 


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『フルメタル・ジャケット』 [映画]

キューブリックの『フルメタル・ジャケット』を見た。

爆笑に継ぐ爆笑。

 


フルメタル・ジャケット

フルメタル・ジャケット

 


某所では~~パニック、の方が有名だったりするけれども(苦笑)、こっちも戦争映画の古典中の古典、と言っていいだろう。ハートマン軍曹はそこらじゅうのサブカル論で取り上げられていたりする。いやぁ、素敵。

二部構成、と言っていいのかどうかは分からないが、前半はアメリカの若者がいわゆる「人間兵器」になっていく過程を描いたもので、後半は実際のベトナム戦争を舞台に戦争の中の極限状態に陥った兵士たちの精神を描いたもの。この対比もなかなか効果的なのかもしれないなぁ。前半はもう、腹を抱えて笑うよ。ほんとに。後半はまぁ今でこそ見尽くした"いわゆる"「戦争の恐ろしさ」が続くんだけども、公開されてすぐの頃はやっぱり衝撃的だったろうな。

 

 

 

 

 

 

さっきも名前を出したけど、その前半のハートマン軍曹、彼が非常に、ひじょーーーーに素晴らしい。もう快感。よくあれだけ汚い言葉を続けられるな、というくらいに、とめどなく溢れてくる罵声怒声誹謗中傷。

「キサマの○○○○○は○○○か! ○○○から○○○を○○して、○○したらどうだ!?」

「サー!ノー!サー!」

「○○○は○○○か!?○○○して○○○するのが好きなんだろ!?」

「サー!ノー!サー!」

 

もうこのやりとりだけで笑える。というか、すごいなぁ。

マシンガントークってレベルじゃねーぞ(少古)。

もう映画じゃなかったら放送禁止もいいところ、

というかそれをまた日本語に訳してるからうけるよね。

いやもちろんしっかりと意訳はしてるんだろうけども、

「俺のケツの穴からピーナッツ探して喰え!」みたいな言葉のはちゃめちゃさは、

英語じゃないともっとしっかり理解できないんだろうなー。というか英語が分かるだけでもダメか。

そこである程度生まれ育ってないと。

なんて夏目漱石の真似事をしながら、物語を追う。

 

 

 

 

 

 

 

以前に書いた「パワプロクンポケット」的な、戦争の残念さ、それがこの前半部分には溢れている。オレンジレンジがPVで真似したりしていた「フンフフフンフフ フンフフフーン♪」みたいな、難しいな、「オレンジレンジを知ってるかーい。」のところか、のメロディにのって、歌詞が次々と出てくるところなんか、まさに残念で滑稽。

全員がランニングしながら「Mama & Papa are lying in bed」から始まる下ネタ満載の歌詞を歌う状況は、面白さに加えて哀愁すら漂ってきて、いいよなぁ。それが前半部ではジングルのように何回か場面の切り替わる時に挟まってくる。上手い。

 

 

あとその小隊内でのいじめ、の描き方が秀逸。連帯責任、でプログラムが厳しくなっていく周りの人間が、その原因となっている一人の「できないデブ」を目の敵のようにしていじめるその様子がリアルでよい。せっけんをタオルで巻いて、っていうのがいかにもアメリカの映画っぽくて。

 

 

 

後半は割と普通なんで割愛。まぁ、うん、普通。

 

 

 

 

 

でも、以前にも書いたとおりこんな風に面白い映画が続いていくと、戦争はなくならないだろうなぁ、と思う。というか現に我々はもうこういう類の映画を見たくて見たくて仕方が無いしね。今はベトナムないし太平洋戦争辺りがまだ完全に消費されていないから、その消費耐久度がなくなるまではそれを題材に映画娯楽を再生産していれば良いけれども、一旦それが途切れると、次なる「題材」を求めて戦争は起こる気がするね。

人の生死がこれほどドラマティックに映る場面というのは、戦争をおいて他にあまり無い。

 

 

 

 

 

で、も、戦争が無くそう!とか、反戦の主張とか、そういうものは全く関係ないところにおいておくとして、

 

 

 

この映画はお勧めです。特に前半部分だけでも、見ておくべし。

 


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大日本人だよ!!!! [映画]

松本人志の映画、『大日本人』を見てきた。

渋谷のQ-AXにてお昼から。

 

面白いけどものすごく切ない映画だった。

というか、面白くも見ることができるし、

悲しく切なくも見ることができるというか。

笑っていいんだけど、それでいいの?っていう。

 

公式サイト

 

 

えーと、『シネマ坊主』なんかの連載でよく松っちゃんが映画を酷評する際に、

「こんな映画は、予告編を2時間に増やしただけ」

なんてことを言う。

30分で終わってしまう内容を無理やり娯楽用に長くしただけ、というか、それこそ予告編のめまぐるしい30秒、60秒程度の映像とナレーションで、映画の内容が全て分かってしまうような作品が溢れている、なんて嘆きが度々出てくる。確かに、途中で展開がもう見えてしまう映画はたくさんあるだろう。

だから絶対に自分はその轍を踏まないというか、

この『大日本人』は「予告」にも細心の注意を払っているんじゃなかろうか、と思った。

そもそも、オチが分かって見る笑いというのは、なかなか伝統芸能でもない限り笑えない。最近の松っちゃんはどうだか分からないが、昔の著作を見ると氏が最も嫌っているのはそういった「はい、出ました!」系の笑いだし、まだそういった抵抗の残滓は彼の中にあるんだろう。だから映画も、いわゆる「予告編」みたいにテレビのCMで流れている“面白そうな部分”はハッキリいって肝心ではない。というかあの予告編から誰がストーリーを予測できようか、といった感じだ。

 

もう圧倒されるよ。それかい!松っちゃん!っていう。

 

 

 

 

 

なので内容はもう見るしか、ない。早く映画館へ!

 

 

 

 

 

 

特番で松っちゃんが「面白さには、哀愁が必要」っていうことを言っていたけども、まさにそれが首尾一貫したテーマ。もちろん、笑っていいんだけど、何か笑えないというか、うーん難しいなこれ。起こっていること自体はものすごく面白いんだけど、笑うと、なんだろうなぁ、申し訳ないというか、、、、恥ずかしい、これか。「恥」との葛藤、それを非常に上手く、我々に要求してくる。いや、「自分だけ笑っちゃって、あら恥ずかしい(////)」っていう恥じゃなくて、それに対して笑ってしまった自分への恥じらい、プライドとも言い換えられるか、を、守るべきなんじゃないかい?と大日本人は問いかけてくるわけである。

特に最後の怒涛の展開はまさにそれ。

大日本人だよ!と言い放てるのは、お酒に酔った時だけという、あの切なさと哀愁が、日本人の魅力。だから、この映画は単純にアメリカへの抵抗とも見ることができるし、「お前ら、笑ってる場合か?」という日本人全員へのシビアな問いかけももちろん含まれているだろう。

そう、「笑ってる場合か?」という問いかけを、「笑い」を通じて行うという、なんとも倒錯的な、すごいね!この二律背反的な、分裂症的な問いかけ。すごい!今思うとすごいことをやってるもんだ。

 

 

 

 

 

 

会場はなかなか、「もうずっと大爆笑!」なんてことはなかったが、所々ではやっぱり噛み締めるように笑っていた。月曜の昼なのに満員…といってもまだ公開3日目か。そりゃそうだな。

隣がカップルで、男が女に甘えに甘えながらひざまくらをしてもらってお前絶対映画見えてないだろみたいな感じだったけども何も言えない、

そんな自分の日本人ぶりを再確認した日だった。

 

 

 

痛快でなければ大大大爆笑でもないし、スリリングでもなければドラマティックでもない。

かといって、心温まったり悲しみに沈んだり、静かに時が流れるでもない。

ただ面白くて切ない、そんな映画。エンターテイメントってなんだろうね。

 

 

とにかく、ネタバレの前に早いとこ劇場に行くといいよ。


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『パンチドランク・ラブ』 [映画]

映画『パンチドランク・ラブ』を見た。

究極の「緊張と緩和」というか、

こんなマゾヒスティックなラブストーリーは他にあんまりない。

そして、「キモい」に収まらない気持ち悪さの魅力を見た気がする。

 


パンチドランク・ラブ DTSエディション

パンチドランク・ラブ DTSエディション


邦題?が「強烈な一目惚れ」となっているんだけども、その言葉の範疇を越えているというか、強烈すぎだろー!という印象。いや確かに強烈なんだけどさ。でも、それがまた、良い。オープニングもエンディングもいわゆる「ラブストーリー」系の映画とは全く違うような、ミステリーホラー系の映画を思わせるもので、なんだなんだ、と思いながら2時間の旅にいざなわれる。ただ、これに入っていけないと、マゾさに耐えられないと、退屈な映画になってしまうだろうな。ハードルが高い、とかじゃなくて、合う合わないで人を選ぶ作品だと思った。

 

 

主役の男が、とにかく、変人。次に何をしでかすか分からなくて、もう怖くて怖くて仕方が無い。でも逆にそれが非常に魅力的っていう。

なんだろうな、キモイキモイとか、ヘンタイヘンタイ~、なんて「言葉」にラベリングされているキャラは、実はそんなに怖くなかったり、遠ざけられていなかったりする。「やだ~、きも~い」って言われることは、ある種、愛されていることの証明であり、「相応の距離」と「相応の場所」を与えられている、なんてことは、昨今のオタクブームやそれこそ日々の人間関係の中でよくお目にかかっているだろう。が、ホントにキモい人間は、本当の変態は、“我々の日々の生活には登場しない”。本当に怖い人間は、「相応の距離」「相応の場所」なんてものから外れた、外、完全に外部に行ってしまう。(というか外部ですらないのだが)

朝方、横浜やら渋谷やらの駅を歩いていると、時々「この人、何するか分からないなぁ。もう、怖いなぁ。離れておこう。」みたいな人が居るだろう。そんなイメージ。何を考えているか分からない、というか、ある種命の危険を感じるような、そんな不気味さを持っている人というのは、そこらじゅうに居る。

この主人公も、そういった「シャレにならない気持ち悪さ」を持っている。ゆる~い、ぬる~い、何の厚みも持たない「気持ち悪い」という言葉とは一線を画したところに、彼は居るのだ。だから我々が日々「見たくないから遠ざけている」ような人間が、主人公としてパンチドランクなラブに身を投じる様を、2時間見せ付けられるのである。これがマゾヒスティック以外の何物であろうか。

 

 

 

 

 

さて、で、舞台はアメリカの田舎の工場。何を考えているのか分からない人が、そのまま何を考えているのか分からないままに日々を過ごしつつ、ちょっとずつ変わっていくストーリー。といっても、「彼は恋に目覚めたのです…(はぁと)」みたいな甘い変化ではなく、癇癪持ちが災いしたり、セックスダイヤルの架空請求にはまったりといいことなし。ただ、そこに全く嘘が無いところ、自分の思ったことをそのまままっすぐに形にするところ、がユーモラスでありキュートであり、彼を魅力的に見せているんだと思う。

何を考えているのか分からないんだけども、彼には彼なりの考えがあったんだ、そしてそこには嘘偽りや、汚い考え方は無かったんだ、と、全てが手に取るようにこちらに分ってくるにつれて、彼の気持ち悪さは見事「魅力」へと姿を変える。

彼が急に壁やガラスを叩き割ったり、電話を思いっきりガチャンと切ったりするのは、何も知らずに見ているとただ「うるせーなー、もっとおちつきなさいよ」と思うんだけども、やっぱりその事情が分かってくるとそうしたいたたまれなさは魅力になり、もうちょっといくと「かわいく」もなる。物を壊す、そうしたストレートな感情表現が、基本的に嘘つきな我々にとって大きな魅力に映るのである。

 

 

 

 

で、一つのハーモニウムと一人の女性をきっかけに、彼のその「暴力性」は「愛情表現」へと姿を変え始め(もちろん暴力的だけども)、パンチドランクラブがスタートするわけだ。

しかししかし、彼のその気持ち悪さは全く姿を変えることが無く、それこそ女性に対してどうしゃべっていいのやら、分からない。ただストレートに、気持ちを表現すればいいんだけども、「好き」とは言えない。なんだろうなぁ、ただチキンなんだけども、でも好きな気持ちが抑えられないというか、そこがかわいいんだよね。いわるゆ「駆け引き」なんてことが絶対に出来ない人間、だけども、恋をしてしまったからには、何かしらの言葉を相手に伝えたい、しかし、好きだと言うと相手に迷惑かもしれないし、振られたら困るし、ああああああああ、壁を殴る、みたいな。

 

その描写が非常にリアルで、見ているこっちは感情移入そっちのけで(いや移入してるんだけど)応援を始める。相手の女性もそれに気づいているような、気づいていないような、向こうはきちんと「駆け引き」をしてくるんだけども、押しも引きもないもんだから、コミュニケーションが全く成立しない。これが面白くて、二人とも徐々にキュートに見えてくる。上手いなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

そして最後、マゾい展開に1時間半くらい耐えていた我々に、至福の時が訪れる。

もう、これは、一瞬だけど、快感。

パンチドランク・ラブの言葉通り。

 

うらぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれは自分の殻を破った快感なんでしょう。」なんてことを言われてしまいそうだが、いやいやそんなことはないぞ。むしろ「私の殻は、こんなのです。」っていう表明。殻ごと思いっきり体当たりしたような快感、そっちの方が適切だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

駆け引きをしないことで、駆け引きそのものに勝つ、という方法。誰もが出来る手段じゃないというか、多分彼くらいに気持ち悪くないと出来ないんだろうけども、でもそうした快感は、ぬるぬると「きも~い」なんて言葉を使っている我々をバコンと殴ってくれる。「好きなら好きって言えばいいのに」なんて言葉を吐く人間は、この主人公に殴られてしまえばいいと思うよ。

 

 

 

とにかくこれは良い映画だった。『マグノリア』もいいけど、こっちもかなりの秀作なんじゃないかと思うよ。深夜2時から4時くらいまでで見たい映画。

 


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『ゆれる』 [映画]

『ゆれる』を見た。

ゆらゆら


ゆれる

ゆれる


 

永遠に田舎で暮らしていくことを運命付けられた兄と、東京で人気カメラマンとして華やかな日々を過ごしていく弟の対比から、人間、家族、その心の「揺れ」を描いた作品。オダギリジョーと香川照之の演技が秀逸で、なんだろうな、人間の「お腹の奥底に煮えたぎって消えないもの」がえぐられるように見えてきた。普段、分かってはいるけどみんな隠しているものが、ふっとした瞬間にとめどなく溢れてくる怖さ、それが上手く描かれていた気がする。

 

 

 

 

 

 

 

最初の30分くらいは、なんだこれ、失敗映画じゃないの?と思うような展開。

火曜サスペンスかよ(笑)と笑ってしまうような、台詞、展開、などなど。

大きな「フリ」だと思って我慢していたが、もうちょっとちゃんと見ておけばよかったかな。

中盤を越えた辺りから、見ているこっちが「ゆれる」のだが、

その幅は最初の30分で決まると言っても過言じゃないかもしれない。

 

 

 

 

「お前はいいよな、東京で。」

っていう、このセリフ。秋田の事件の畠山鈴香容疑者も同じセリフを言っていたらしいが、田舎で、一生暮らしていくことをある種運命付けられてしまった人間が持つコンプレックス、それを上目遣いで押し付けられた時、受ける人間は非常に辛い。オダギリジョーもそうやって迫られると、しなくても良い自己反省を始めざるを得なくなってしまう。難しいもんだなぁ。「置いていかないで!」っていう悲痛な叫びをこちらが引き受ける義理なんてのは(兄弟だから、というのはあるが)ないわけで、でも引き受けないと自分が悪いような気がして…という負の連鎖、それがこのセリフこのシーンには溢れていた。

 

「お前はいいよな、華やかな仕事場で、女にもモテて、お金も稼げて、いい車にも乗れて、これ以外に何が欲しい?」という風にぶつけられるルサンチマンに対して、「それはお前が努力してないからだ。」と言っていいのか悪いのか、果たして自分は言えるのか言えないのか、最後まで「ゆれる」のがこのストーリーだった。

 

 

 

 

 

 

 

どんでん返し?なのかどうかすら分からないままに、映画の最後は割りと「どっちだったのか」分からずじまい。どっちなんだろう、という感想こそが正解なのかもしれないが、記憶すらも自己暗示的に変えられてしまうのか~と思うと、なんとも。

最後オダギリジョーが「一緒に家に帰ろうよ!」と叫ぶ感動的なシーンがあるんだけども、それですら裏に何か意味があったりすんじゃないか、と読んでしまったり、意地悪なのはこの二人の兄弟だったはずが、見ているこっちがどんどん意地悪にされてしまう、みたいなね。面白い。

 

 

 

 

スリリング、で、全員が全員嘘をついているよう、で、全員がもう嘘なんてつきたくないと思っていて、でもやめられなくて、という不安定さ、それがこの映画の魅力なんだと思う。

朝に見たんだけども、もやもやしたまま一日を過ごしてしまったなぁ。

 

ゆらゆら。

 


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『笑の大学』 [映画]

『笑の大学』を見た。

三谷幸喜の底力?底でもないか。



 

その、笑いについて語る、だとか、笑いそのものをテーマにした小説だったり映画だったり漫画だったり、が、ことごとくつまらない、ということはよくある。それこそ、ドラマの中で漫才をやっているシーンや、漫才漫画なんてのは本当に残念だし、文章で「なんでやねん!」なんて書いてあるのを見ると、なんとも切ない気持ちになる。

それを、どうにかこうにか時間をかけて越えていく様が、非常に勉強になった。いやー、三谷さんすごい。

『笑の大学』っていうタイトルだけで、もう観客は「どう笑わせてくるのか」とか、「笑いとは何かを問いかけてくるのか?」なんて推論したりしながら、「自分はちょっとやそっとじゃ笑わないぞー」と、しょーもない決意をしてしまう。そんなに簡単に、笑ってたまるか!とまではいかなくとも、なんとなく笑いづらい雰囲気ができてしまうのは仕方が無いことだろう。

「普通に歩いてみてください」と言われると「普通に歩」けなくなるように、どうぞ笑ってくださいと言われると、笑えなくなる。これが難しいところなんだよなぁ。

 

 

 

 

 

 

さてさて、肝心の内容は「検閲官と劇作家の対話」。明治か大正あたりの、まだまだ言論統制が厳しかった頃、劇の脚本ひとつにしても検閲が入っていた時代に、脚本家と検閲官が自分たちのぎりぎりを見極めながら、何が面白いかを次第に探求していくというお話。ちょっと違うか?(笑)。カタブツの検閲官(役所広司)が、脚本家(稲垣ごろちゃん)と話し、公演するのに問題があるところを順次直させようとするのだが、その掛け合いからどんどん検閲官がかわいくなっていく。その様が非常に笑えるんだよなぁ。面白さに目覚めていく様子、というか、こいつ馬鹿だなー(笑)というのが一番大きいかもしれない。

 

 

でも、役者二人だけでここまで出来る、というのはすごい。うん。

二時間くらい、退屈しないままに過ぎていくのは脚本の力としか。

 

 

 

 

 

劇中のネタそれ自体は非常に小さな、言ってみればあんまり面白くないものなんだけども、ちょっとすべり笑い的というか、役者がベタに真剣にそれを考えたり演じたり「面白いのか考えたり」する様子が、我々観客には面白いのだ。「お国」と「お肉」、全然違うじゃないかー!みたいな、もうこんなの面白さのかけらもないけども、それを面白いと信じて笑ってしまう人間を見ると、我々も笑ってしまう、みたいな。ちょっと乖離しているけども、構えている人たちを笑わせるにはそういった方法しかないのかもしれない。

 

 

 

いやー、非常に勉強になる映画だった。

有頂天ホテルなんかよりよっぽど良いよ。おすすめ。


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